昔、高校生だった頃谷川徹三氏の「われ」と「われら」と云う文章を読んで少しばかり社会とか国家とか世界、いや宇宙の中の自分の存在をチラッと垣間見た様な気になったことを憶えて居ます。その後、科学をそれ程興味深く思っていたワケでも無いのに理科系大学に進み、始めて集合論を学びました。その時、なる程哲学と数学とは合い通じるものがあって、昔むかしの大数学者(大科学者)はほとんど哲学者であったではないかと気が付いた次第でした。 それ以来、私は事ある毎に「われ」と「われら」を私の周りで起こる事象に当てはめてみる習慣がついたのです。個人個人で成り立っている組織も周囲にその対象ができるとわれのあつまりであるわれらの組織がわが組織に変わり、その中で論議されるのは恰もわれの集合体である組織が一個の個体として語られます。そうです、われらの日本なのにオリンピックなどに臨めばわが日本となり日本人全てが一丸となって日の丸をうち振りわが国家の勝敗やいかんとその行方を追うのです。私と野口との関係を振り返ってみると、ある重要な人物が因果応報、財団を去らざるを得なくなった時から、私にとっての野口はわれらが野口に変わった様に思います。これは決して私が野口を私物視したと云う事ではありません。これから野口が晒されるであろう困難に立ち向かうには「われらが」などといった生易しい感覚ではとても乗り切れないだろう、残った「われ」の集まりが「われら」でなく「われ」そのものとしての“まとまり”をもって事に当たるべきであると決心したと云うことだったと思います。そしてそれからは皆、正に一丸となって今日の野口を作る為に、涙あり、笑い(苦笑に近い)ありのここ数年間を過ごして来たワケですが、やはり個性の強い「われ」らの集団だけにわれらの中のわれらが時として顕れ、野口の結束にヒビが入りかけた事もありました。「走れメロス」ではないけれど私が約束を果たす為に走っている男の役なのか檻の中でジッと待っている男の方なのかよく判らない場面もありました。いずれにせよわが家族には檻の中で待つ役を強いたのは間違いありません。
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この15年の中で、特にある人物との邂逅と別れを経験したことに依り、益々「われ」と「われら」の境界線を強く意識する様になりました。そして特にここ数年間の出来事は、われ−私にとって真に貴重な経験であったと思います。唯、この経験を生かして更なる発展を、と思った時には既に人生の黄昏を迎える年になってしまったとは、なんともはや、皮肉なものです。しかし、私がここに確実に得たものは頼もしい若きドクターや看護婦さん達がわが野口を担って呉れるであろう大いなる期待と、その野口の経営基盤を支える各事業が安定の兆しを示し始めた事であろうと思います。
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最後に、常にわれの側に居てわが野口にとって最も重要な使命である医学交流を不撓不屈の精神でやり遂げたわが専務理事 津田 武先生と明日の職員への給料をどうやって払おうかと思案投げ首の私の前にわれの貯金通帳であると、黙って自らの虎の子を差し出してくれた鈴木眞奈女史の内助の功に深く深く感謝したいと思います。誤解の無い様にもうひとつ、尾島昭次会長の年令を超えた深い友情と我慢に始まり、霞理事長、小柳社長、澤田常務理事などにも随分とご苦労をお掛けして誠に申し訳なく思うのと同時に、ここで新めてお礼を申し上げて置きたいと思います。
さて、われ野口もいま少し走ればもう大丈夫、わが同胞達を檻から解放してあげられる所まで来ていると確信できるし、何よりも「われ」のサイズが昔とは比較にならない程大きくなって来ています。わが野口よ永遠なれ、医学の進歩はまた文化発展のバロメーターであり、礎にもなる事を「われ」全員胆に銘じ、とかく陥りやすい科学者のエゴを捨てて真のフィロソファーとしてわが野口の歴史の1ページを飾って頂きたいと思っています。ありがとう、わが野口。
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