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留学体験記
 匂いの記憶
                                    静岡県立こども病院 小児集中治療センター
                                      植田 育也

嗅覚は第一脳神経によって脳に伝達される。そしてそれは人間にとってもっとも原始的な感覚とされる。
日常生活において、常に嗅覚を研ぎ澄ませて、という暮らしぶりの人はそう多くないだろう。また、仕事上これを要求されるのは、ウィスキーのブレンダー、調香師などごく限られた職種の人たちである。
そんな鈍磨な日常を、嗅覚的には過ごしているわれわれも、ふと嗅いだ匂いから遙か昔の記憶が呼び戻されることがある。


咽せるような湿り気、バスの煤煙の匂い・・・夏の夜のヴァイン・ストリートの記憶がよみがえる。スモークガラスの市営バスが轟音を立てて目の前を通り過ぎ、そのディーゼル排気が更に暑苦しさに拍車をかける。バスが行き過ぎれば、ストリートは静寂を取り戻し、オレンジ色の街灯の光があたりをぼんやりと照らす。街の喧噪が引き潮のように洗い流されると、かなりの音量で聞こえてくる虫の声。病院からの帰り道、Wawaで買った明日の朝食のパンとヨーグルトを入れたコンビニ袋を下げながら、とぼとぼとそんな薄暗いストリートをゲストハウスへと歩く。
「今日も、前へ出られなかったな・・もうちょっと目立たないと・・みんなが喋っている内容はわかるし質問も頭に浮かんだんだけれど・・フゥ。」
フィラデルフィア小児病院救急部でのエクスターン時代の匂いの記憶。


石鹸か、あるいは床掃除の洗剤のわずかな芳香。深夜だというのに煌々と照らされた廊下。効き過ぎて鳥肌の立ちそうな空調。遠くから掃除のオバちゃんの操る巨大な自走式床掃除機の轟音がこだましてくる。当直中の午前3時にホッと一息。チャージナースに一言断り、夜食を買いにカフェテリアへ。マッシュポテトにグレービーソース。不思議に何の香りもしないのだ。グビリと飲み下すポップシクル(シンシナティでは「ソーダ」ではなかった)は、得も言われぬ薬臭い匂いのダイエット・ドクターペッパー。美味いのか?微妙、但し目は覚める。さて、勤務に戻ろう。
「あぁ、これで今夜は後落ち着いていて欲しいなぁ・・・。」シンシナティ小児病院PICUでのフェロー時代の匂いの記憶。


暖かい機内に外の寒気が流れ込み、鼻腔をくすぐる。華氏5度。寒冷刺激に鼻汁が止まらなくなる。オハイオ北部、トリドの町の空港の凍てついた滑走路にリア・ジェットはツルツルと滑るように着陸した。エンジン音と共に飛行機の金属の匂い、オイルの匂いが絡みつく。これからトリドの総合病院に、重症呼吸不全で体外循環によるサポートが必要になるかも知れないという女の子を迎えに行く。何が起きても困らないような重装備をカバンに詰め、迎えの救急車に乗せ替える。トランスポートチームはPICUでも世話になった、たくさんのことを教えてもらったナースのジーナを同行させてくれた。さて、全てを乗せたら準備はOK、ヘルプの必要な病院へ急ごう。航空機搬送に出た先の、着陸地の空港での匂いの記憶。


血の臭い、それは大量血胸だったり、開胸心臓マッサージだったりする。決して快くはないフラッシュバック。幾度となく繰り返し、幾重にも折り重なっている匂いの記憶。


匂いに色があるならそれは青色。見渡す限りの草原を渡ってくる風。風は草を波打たせ、丘は地平線を波打たせる。草原はうねるように高低を繰り返し、地平線まで続いている。そしてそこここを駆ける馬。ここはオハイオのすぐ南、ケンタッキーのホース・ファーム。戦前に建てられた馬主の洋館が今はB&Bになっている。朝、目をさましてそぞろ歩くと、朝靄の中に草原と、駆ける馬の姿が見える。美しさにしばし言葉を失う。ケンタッキーのホースファームでのしばしの休暇中の匂いの記憶。


帰国後、何を為し、何を為さなかっただろうか。それを語るのは創立50周年の記念誌にしたいと思う。今は奔流のまっただ中。精一杯生きながら、ふと匂いの記憶が蘇る。


野口医学研究所創立25周年おめでとうございます。

                                             平成20年10月 植田育也