毎年楽しみにしている米国リウマチ学会に今年も参加した。1万5千人の参加者が集う大きな学会で、基礎医学から臨床医学まで幅広いテーマを扱い、医師のみならずコメディカルの人々:ナース、理学療法士、Arthritis foundationのメンバー(患者さんも含む)も参加する。記念講演のテーマはリウマチ性筋痛症と側頭動脈炎の歴史について語られ、興味深かった。1800年代終わりよりいずれの疾患概念も提唱されていたが、両疾患の関連を認識されるようになったのは1950年代になってからだ。側頭動脈炎について当時のMayo Clinicからの症例報告では、高齢者での熱・体重減少といったConstitutional symptomに加え、側頭動脈に圧痛と腫脹を伴う部位と、正常な部位も認める、全身症状と局所症状を同時に呈する新たな疾患である、と綴っている。一方、リウマチ性筋痛症はSenile rheumatic gout(高齢のリウマチ性痛風)として報告され、その後、高齢者に起こるリウマチ症候群など、様々な名称で呼ばれながら広くこの疾患の特徴が理解されるようになった。ただ、50年以上もの間これら二つの疾患についての繋がりを議論されなかったことが今では不思議に感じる。電子メディアといった媒体無しに医学情報を他人と共有するスピードははるかに遅かったのは当然である。新たな疾患概念が世の中に認識されるのには時間がかかるが、二つの疾患を関連付けていく過程はさらに複雑であろう。リウマチ膠原病の分野は免疫学無しに疾患の理解も治療も語れないほど変遷してきている。疾患概念を模索していた100年前の医師たちが現状を眼にしたら、どんなに驚くであろう。そんなことを考えている間、フェロー時代にお世話になったご高齢の恩師たちが自分たちの受けた研修と膠原病治療の変化をしみじみと語っていたことを思い出した。臨床研修の変遷もこの100年でずいぶん移り変わったのだろう、と勝手に想像を膨らませていた。
アメリカ留学を志し、野口医学研究所のエクスターンを申し込んだのが研修医2年目のときだった。外国に住んでみたい、という単純な理由で留学を希望していたが、トーマスジェファーソン大学病院でのエクスターンの機会を与えていただいてから、アメリカでの研修生活を本気でやってみたいと思うようになった。翌年、東京海上のNプログラムを通して、ニューヨークでの研修生活が始まった。インターン生活では疲れ果てた毎日を過ごしたが、他の日本人留学者の方々にも随分助けてもらった。その後膠原病リウマチ疾患に興味を持ち、フェローシップでは2年間様々な膠原病疾患をみることができて非常に勉強になった。最後の1年は大学院で公衆衛生を学び、その後の臨床研究に大変役立っている。
フェロー研修中、1960年代に研修をしたというアテンディングに数名にお世話になり、アメリカでの当時の研修の様子を聞く機会が何度かあった。当時、勤務時間制限は一切設けられていなかったから、アメリカの研修医労働時間は週あたりゆうに100時間を越えていた。
研修医はHouse staffと呼ばれるとおり、病院の中に住んでコールされたらすぐ駆けつける。 心筋梗塞の患者がいたら、心電図のフォローや白血球上昇がみられるか、夜中も起きて数時間毎に自分たちで心電図をとり採血をする。心筋梗塞後は安静にすべきであるとされていたから今のように心筋梗塞後のリハビリをすぐに開始しなかった。入院後何日も患者さんを寝かせておいたから、深部静脈血栓症もよく引き起こしていたかもしれない、と語っていた。フェローになると膠原病疾患のコンサルトがあったら、症例のプレゼンテーションを行い、その後多くのアテンディングを交えてベッドサイドにて所見の有無を議論した。抗核抗体の染色は研修医かフェローが行い、自分で判断した。関節液の白血球数もフェロー自身で数えた。文字通り自分たちの手を動かして診断学に精通した。一方、冒険心旺盛なアテンディングのDr. Jaffyは、関節リウマチにはステロイドのみという時代に、D-ペニシラミンを初めて試し、副作用が多いためその後用いられなくなったが、一時期DMARDとして多くの人に使われることとなった。「今はエビデンスってみんな言うけど、新しいことを試みるにはエビデンスなんて言葉は通用しないからね。」と笑いながら話していた。画像や検査データの情報量が多くなるにつれ、これらの古きよきアテンディングたちは昔を懐かしみながら、「今のシステムではカンファレンスルームで画像や検査データを眺め患者の方針を議論しているのに、実際の患者を見に行く時間は激減していて、とても残念なことだ。」と嘆いていた。
彼らの関節所見のとり方はアートといっても過言でない。いつか自分もあんな風に所見を取れるようになってみたい、という憧れが消えずに残っている。一番印象深いのは、Teachingと日常診療とが混在している点であろう。ベッドサイドティーチングが診療方針を決めていく過程で同時に行われていることだ。コロンビア大学のレジデントを1960年代に終えて、30年以上も同じ病院で診療と臨床教育を続けてきたMaster Physicianからのメッセージは何だったのだろう、と時々考える。 帰国後、札幌の病院では研修医の先生方と一緒に仕事をする機会に恵まれた。自分が研修を受けるという立場から、指導医という立場にいつの間にか変わっていた。レジデントは自分より10歳も年下の元気のいい若者たちだ。Faculty development, Continuous Medical Educationなど当たり前のように現在では享受している概念も、ふと立ち止まって考えてみたくなった。医学的に疾患の理解を深めたいという知的欲求と、自分自身が人間としても医者としても成長し続けたいという欲求はおそらく研修医のころから変わっていない。アメリカから戻ってきて気づいたもうひとつの大きな欲求は、研修医の先生たちが育っていく過程をみていたい、という思いだ。自分の子供たちが育っていく過程をみるのとおそらく同じような感覚で若い研修医の先生たちの成長を本当に頼もしく嬉しく思う。医学のこれまでの変遷や、経験を積んだ大ベテランの医師たちのことを思い浮かべながら、医学の歴史の中では小さな点に過ぎないながらも若い人たちとどうやってこの大きな医学の歴史を感じながらすごしていくのかがこれからのテーマだと思っている。
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