野口医学研究所の名は1876年福島県猪苗代に生まれた野口英世博士に由来します。上京した野口は、当時世界的な細菌学者であった北里柴三郎を所長とする伝染病研究所の助手として働き始めます。ペンシルバニア大学サイモン・フレクスナー博士が来日した際に案内役となり、知己を得ます。それを頼りに1900年渡米し、フレクスナー博士に師事し、蛇毒や梅毒スピロヘータの研究などで名を成し、1915年凱旋帰国します。その後エクアドル、ペルー、メキシコ、ブラジルなどで仕事をし、黄熱病研究のためガーナに赴くものの、黄熱病に倒れ客死します。
野口英世は幼いとき火傷を手に負ったハンディをばねにして世界的医学者になる偉人伝として紹介されることも多い一方、浪費癖や猛烈な仕事振りなど、ややエキセントリックな面が最近は取り上げられることも多いようです。渡辺淳一の「遠き落日」(角川書店)はそうした両面に光を当てながら仕事に没頭して異国の地で亡くなった野口を描いています。
野口の時代からさらに遡ること半世紀、19世紀半ばのウィーン大学付属病院産科病棟では産褥熱が大流行していました。致命的になることも多い産褥熱の病因は当時不明であり、環境説などが有力でした。それまでは助産婦が取り上げることの多かった分娩に家庭医や産科医が進出し、それと並行して産褥熱で命を落とす妊婦の数が欧米で増加しました。この増加現象から、医師自身が産褥熱に関与することを提唱した者もいましたが、当時有力な産科医Meigs教授(トーマスジェファーソン大学)らが強烈に反論しました。このような時代にハンガリー出身の医師Ignac Semmelweisはウィーン大学産科講座の助手として産褥熱の病因究明に取り掛かります。
当時ウィーン大学付属病院は家庭医に診てもらえない貧しい妊婦や故あって自宅で出産できない女性を扱っていました。曜日ごとに第1産科病棟、第2産科病棟で出産を分担し、第1病棟は医師と医学生が、第2病棟は助産婦が分娩に携わっていました。両者とも年間3000〜3500の分娩件数がありましたが、第1病棟では年600〜800人の女性が命を落とすのに、第2病棟は約60名しか死亡しませんでした。さらにウィーン市内では大学病院第1病棟内以外では流行が見られず、一般家庭医や助産婦の分娩ではほとんどなく、道端で生んでしまう妊婦が産褥熱で命を落とす例は稀でした。妊娠中の外傷の程度に比例して産褥熱のリスクが上昇すること、病棟を閉鎖すると流行が沈静化すること、産褥熱で死亡した母親の子供もしばしば同じような熱病で亡くなることなどから、Semmelweisはトレーニングのために内診を分娩中に何度も繰り返す医学生や医師自身が病因となっているのではないか、と推論を進めていきます。そして1847年、彼の敬愛する法医学教授Jacob Kolletschkaが解剖中に医学生のメスに誤って手を切られ、数日後に猛烈な感染症で死亡するのです。Kolletschka博士の剖検に立ち会ったSemmelweisは確信に至ります。「産褥熱もKolletschka博士を死に至らしめた原因も同一であり、死体に起因する“particle”に由来する。剖検を終えた医学生や産科医が遺体からのParticleを分娩室に持ち込むことで妊婦に産褥熱が発生するのである」、と。当時、医師が手洗いをしなければならないということは知られていませんでした。
Semmelweisは剖検を終えた医師や医学生が分娩室に立ち入る前に、塩素水で手洗いをすることを義務としました。その結果、ウィーン大学第1産科病棟での産褥熱の発生率が劇的に低下するのです。
長年の臨床データを緻密に分析することから導かれた原因と対策法は、現代の感染管理の手法の先駆けです。しかし保守的な彼の上司である産科教授や医学界はSemmelweisの説を信用しませんでした。それでもSemmelweisの功績を評価し庇護する教員仲間も多数おり、学会での発表や追加実験で彼の説を確立するよう勧めましたが、教授との軋轢などから突然ウィーンを飛び出し郷里ハンガリーのペストに戻ってしまいます。ペストの病院でも手洗いを厳命したり、リネンの使いまわしを禁止するなどして産褥熱を駆逐していきます。しかしあまりに厳格な態度に彼に敵意を抱くスタッフが増え、彼の説は医学界で受け入れられるどころか、誤解が深まっていきます。業を煮やしたSemmelweisはついに自説を擁護する論文“The Etiology, the Concept, and the Prophylaxis of Childbed Fever”を1860年に発表します。しかし、彼の説を攻撃する陣営に徹底的に反論するために多大な紙面を費やしたこの論文は難解過ぎて、世に受け入れられませんでした。
この頃から精神の異常を来たしたSemmelweisは精神病院に収容され1865年に亡くなります(折檻され、その傷からの感染が死因となったという説が有力)。
1857年フランスでLouis Pasteurが煮沸したスープの実験を発表し、Germ theory時代が幕開けを告げます。1867年にはイギリス人Joseph Listerが石炭酸による消毒法で術後死亡率が2/3に減少した、という論文を医学誌Lancetに発表します。Listerの知見もSemmelweisと同様、発表当初はなかなか受け入れられませんでした。しかしSemmelweisと違ってListerはわかりやすい論文を発表し、穏やかな説得を用い、共同研究を行って追試を繰り返しました。消毒法が医学界に受け入れられるには更に20年を要しました。完全な消毒法を導入した手術室が米国に登場するのはさらに遅れること1889年、Johns Hopkins病院(メリーランド州ボルチモア)を待たなければなりませんでした。
Semmelweisの後半生、彼の戦いと敗北、限界を描いた小説“The Doctors’ Plague”終章で、著者Sherwin Nuland(Yale大学外科教授であり医学史家でもある)はウィーン大学病院を訪ねSemmelweisの史跡を探します。ウィーン大医学生に尋ねても要領を得ず、歴史を軽んずる風潮が米国だけでないことに嘆息しながらウィーンを後にします。
鋭い洞察力でGerm theory登場以前に産褥熱の病因を解明し、有効な対策まで講じることのできたSemmelweisでしたが、ひとを疎外するような厳しい性格が災いして彼の功績は歴史に埋没してしまいました。正しいことを説明してもなかなか受け入れられない。受け入れられるには年月と、受け入れる土壌、受け入れてもらう性格や政治力などといったものが必要である、という至極単純明快な教訓なのでしょう。 野口英世の浪費壁・猛烈な仕事ぶり、Semmelweisの偏狭な性格など、「もしもこうであったなら、あぁでなかったら」もうすこし違った命運を辿ったかもしれません。しかしひとの性格はなかなか変えられるものでもなく、歴史に「もし」はありません。野口医学研究所25周年の今年、四半世紀前に苦労して米国に研修で渡られた先達たちの栄光と苦労、挫折などに思いを馳せながらこのエッセーを締めくくりたいと思います。
金城紀与史
沖縄県立中部病院内科(総合内科グループ)
参考
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1.野口英世についての略歴は会津若松市のホームページを参照した。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/noguchi/hideyo.htm
2.Ignac Semmelweisについては“Doctors’ Plague” Sherwin B. Nuland著、
W. W. Norton & Company, Inc、2003年刊を参考にした。
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