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留学体験記
 The long wway to "The best resident of the year"
                                          University of Pittsburgh
                                            Critical Care Medicine
                                            藤谷 茂樹

この度は、野口医学研究所20周年記念おめでとうございます。
私は、医師11年目にして、ハワイ大学で内科研修を始め、この6月に無事に卒業することができました。年をとってからの研修のため、若い先生方、学生のみなさんには、あまり参考にならないかもしれませんが、ある程度、経験のある先生方の参考になればと思い、ピッツバーグ大学より投稿します。


1.初めに私の簡単な経歴を紹介します。
私は、高校まで、島根の片田舎で過ごし、自治医科大学を1990年に卒業しました。卒業後は、何の疑問もなく、一般外科医としてトレーニングを受け、僻地の中核病院で後期研修を交えながら9年の自治医大の義務年限を終えました。

2.USMLE を受ける理由
自治医科大学の義務年限最後の9年目になり、自分の将来について考えることになりました。卒業後は、他大学卒業生とは異なり、自動的に県職員になることができるため、県職を続ければ、県立中央病院に残り、何不自由のない生活と将来の身分の保証が確約されていました。そんな状況で、9年目にしてから、系統的な研修を受けたいと思い立ちました。 家族からの強い反対もあり(経済的、子供の教育など)、また、複数回受験すると、受けいれが困難になるなどの理由で、1度だけ試験に挑戦することにしました。島根県の隠岐の島では、情報収集に苦労しましたが、5ヶ月間でUSMLE STEP 1, 2, TOEFLEを無事パスすることができました。試験に落ちれば、県職員になることを決意していただけに、合格通知が届いた時には、感無量でした。

3.外科医から内科への転向
9年間、一般外科医として勤務してきましたが、野口医学研究所での面接で、外科のプログラムにカテゴリカルとして入るのは、ほぼ不可能だということを知らされたこと、あと5年間のレジデンシィートレーニングをプレリミナリーで何とかもぐりこんだとしても確約されないということで、発想の転換をすることにしました。9年間で自分には、術後管理に際し、内科的知識が必要であると再認識し、一から勉強しなおすことにしました。ここが自分にとっての人生最大のターニングポイントでした。今から思えば、自分の経歴を捨て、背水の陣で臨んだ自分の勇敢(無謀)さに脱帽してしまいます。


4.野口医学研究所での面接
USMLEの試験勉強の時に、ふと目に付いたアメリカ臨床留学への道を読み、佐藤隆美先生(自治医科大学卒で9年の義務終了後トーマスジェファーソン大学にて、準教授をされている)の名前と経歴を見つけ、フィラデルフィアに電話をしてみました。野口医学研究所の理事をされていることもあり、いろいろなストラテジーを授かりました。無事に、野口のアメリカでの短期サブインターンシップの選考にパスし、順風満帆のように思ったのもつかの間、ここから待ち受けている苦難の道を知る由もありませんでした。
5.CSA(clinical skill assessment)を、ハワイ大学での研修後受験する予定としましたが、研修の受け入れ先でのオープニングがないため、12月まで研修が先延ばしとなってしまいました。7月にハワイ大学での研修、その直後にCSAを受ける予定としていましたが予定がくるってしまったため、アイオア州で救急をしている知人のところに10日間ほどお世話になり、そしてCSAを受けました。

5.ハワイ大学でのサブインターンシップ
12月に、ハワイ大学で研修することができましたが、これも空きポジションがなかったため、クワキニ病院で内科医をしているDr. Michael Nagoshiについて、外来をメイン、入院患者4-5名を1ヶ月間、見ることになりました。私の希望で、レジデントの当直の見学、カンファレンスの見学を申し出ましたが、この交換留学プログラム責任者に反対され、1人の内科医の見学となってしまいました。SPD(standardized patient drill)といって、CSAに非常に類似したものを受験しました。ハワイ大学の3-4年も同時に受け、模擬患者が採点します。そのテストで、学生の平均点以上あったので、トーマスジェファーソン大学でのサブインターンシップを受けることができました。できれば、ハワイ大学でout of matchでポジションのオファーをと期待しましたが、その期待もくじかれ、また、ハワイ大学でのみ、インタビューを受け、残りは、どこからもインタビューの返事がありませんでした。

6.トーマスジェファーソン大学でのサブインターンシップ
マッチングは半ば諦め、3月のマッチングでオープニングが出たところへ、ゲリラ作戦的に電話をかけ、ポジションを獲得する作戦に切り替えました。このオープニングも、アメリカ人優先のため非常に確率の低い賭けでした。250通以上のプログラムに、マッチングにオープニングがでたら、インタビューに呼んで欲しいと、自分の履歴書、3通の推薦状と同封して郵送しましたが、インタビューへの招待は、僅か2箇所、それも、ニューヨークの誰も行きたがらない場所でした。2000年3月の半ば、いよいよマッチングの日が来ました。だめもとで、チェックしてみたところ、幸運にも、ハワイ大学へマッチングしていました。この時の、感動は、今でも忘れることができません。

7.ハワイ大学でのレジデント研修
●インターンシップ
ビザが来るのが研修のオリエンテーションの当日ということもあり、ハワイに到着したと同時に、研修が始まりました。日本人が私を含めて3人いましたが、他の2人は、1ヶ月前からサブインターンシップをしていたため、すんなりと研修に導入できました。ソーシャルセキュリティカード、ドライバーライセンス、車の購入、子供の学校の手続きなどなど、また、はじめてのコンピューターシステム、最悪なことに、プログラムで一番忙しく、厳しい教授がアテンディングもあり、その1月は、3週間研修したにもかかわらず、discredit となってしまいました。これが、私の今後経験する挫折の発端です。プログラム自体が小さいせいもあり、1度このレジデントはできないというレッテルを貼られると、それが、2年間も尾をひきました。
これは、今となっては、笑い話になりますが、当直の日に、他のチームのクロスカバーをしながら、自分のチームへ新入院患者を7人受け持った時です。翌日、早朝よりラウンドを始め、プログレスノートを書きましたが、あとで自分のノートをみると、全く私の患者と関係のないデータや、問題点を書いていました。自分でも、なぜそのようなことを書いてしまったのか理解できませんでした。この時に、これが、自分の能力の限界だということを知りました。
3月になると、2年目の契約の手紙が来るのですが、私の場合、2年目になって、インターンと学生に指導ができないのではということで(主に語学の問題)、5月まで先延ばしとなりました。春休みを返上して、語学学校、カンファレンスへ出席し、かろうじて、2年目に上がれることになりました。
●Dr. Bruce Sollとの出会い
アメリカには、とてつもなく懐の深く優秀な人はいるもので、今までの中で、はじめてそういう人に出会いました。彼は、ハワイ大学の呼吸器科のチーフで、director of medical educationです。教育には非常に熱心で、色眼鏡をかけて人を見たりすることもありません。そんな彼と一緒に働く機会が2ヶ月間もあり、そこで彼が、私を少しずつ、認めてくれるようになりました。

8.フェローシップの応募
2年目になったらすぐに、フェローの申し込みを開始しました。もともと外科をしていて全身管理をしっかりしたいと常日頃思っていたこともあり、呼吸器/集中治療のフェローに応募することにしました。推薦状を3通がほとんどのプログラムから要求されます。1年目の経歴に傷がついてしまったため、プログラムディレクターはその事を推薦状に必ず書かないといけないという暗黙の了解みたいなものがあり、10箇所もインタビューをしましたが、どこにもマッチしませんでした。これにはかなりのショックを受けましたが、まだ、救ってくれる人はいました。本来、進みたい、集中治療学の空きポジションを見つけ、応募しました。ピッツバーグ大学出身のアテンディングが、強力な推薦状を書いてくれ、当初は、全く予想だにしなかったピッツバーグ大学の集中治療学のフェローになることができました。

9.The long way to " The best resident of the year"
今まで述べた挫折をバネにして成長してきました。ほんの少しだけしか生えていなかった白髪も、3年後には、かなり増え、自分でも苦労を実感することができます。3年目の終わりに、卒業パーティーがあるのですが、この席で栄誉でもある " The best resident of the year"を授与されました。この重圧がなければ、また、援助してくれる人がいなければ、この賞をもらうことはできなかったと思います。
モチベーションを保つため、常に、ハングリーであること(重圧があること)、いや、そうする事で、成長しつづける自分を第3者的に見つめることは、非常に興味のあるところです。今後も、モチベーションを保ちつつ、専門分野(集中治療学)を学びながら、日本の医学教育に少しでも、貢献できればと思っています。

10.最後に今後の日本医学教育に希望すること
FMG(foreign medical graduate) と一緒に働いて痛感することは、発展途上国の学生の方が、英語でのコミュニケーションに何ら問題を持っていないように感じられます。彼らに聞くと、英語教育の年数は、日本人と同様、しかし、医学部では、英語の教科書、英語での講義です。日本は恵まれすぎるため、全てが日本語の教科書、また治療方法も、今でこそ、EBMをとり入れはじめていますが、まだまだ、改善の余地があると思います。たくさんの日本人がアメリカに来て成功していますが、これも、氷山の一角です。世界がどうなっているのか分からない、いわば、医学教育の鎖国状態を脱しなければ、世界の中の日本の確固たる地位は、築かれないと思います。今後、研修指定病院での、研修教育者の育成、それが、医療経済にも非間接的にも反映してくると思われますが、早急に取り組んでもらいたいと思います。

11.謝辞
野口医学研究所20周年、本当におめでとうございます。これまでにも、多大に日本の医学教育会に影響を及ぼしてきましたが、現在、医学教育の転換期を迎え、ますます、発展することだと思います。私は、野口のフェローだということを誇りにし、今後も精進していきます。
最後に佐藤隆美先生をはじめ、今まで私を応援して下さった野口医学研究所の方々、ハワイ大学の友人や先生方、自治医科大学の関係者、私を常にサポートしてくれた妻と子供達に心から感謝します。